「バスの運ちゃん」と「選択」

この連休にテレコムセンターへ行くために
大井町からバスに乗ろうと、バス停で並んでいました。

 

時刻通りに到着したバスの扉が開くなり

「ちょ〜ぉっと待ってください。
何が起きてるかわかんないんですけどーっ」

と、
いくばくか怒気交じりの声が聞こえてきました。

 

「いったい誰に言ってるのかしら??」

と時が止まること一瞬。

 

間違いなくバスの運転手さんのマイク越しの声ではあるものの、
唐突な切り出しに感じたものですから、いくぶん驚きました。

 

ひとしきり説明を聞くと
どうやらお台場付近へ行く高速のトンネル内から大渋滞で車が止まっているとのこと。

 

そして
「ちょっとぉっ読めないんっすよねーっ。電車のほうがいいかもしれないですね」

 

うーむ。バスの方が楽ちんなのに。。。
どれくらいかかるんだろう。

 

「なんでぇ、時間かかってもよければいいんすけど、
ちょぉーっと、ほんと読めないんすよぉー」

 

というわけで結局は電車を選択しました。

 

そのあと、ふと、こう思ったんです。

 

「わたしたちの周りは、【選択】で溢れている」

 

バスの運ちゃん事件(勝手に事件にしてますが)では
結構な確率で電車を選択する人が多いかもですが、

 

どこかへ行く時でも、なにをするときでも、しないときでも、
すべて【選択】ですよね。

 

当たり前じゃん、って思うかもしれませんけれど、

 

やりたいことが出来ないことを
環境のせいとか、
自分の能力のせいとかにしてしまうことって
あると思うんです。

 

たとえば。
「わたしはココにいるから、自分の能力を発揮できない」
「俺はこんなもんだから。それ以上は望まないよ」
「この家庭に育ったから、しょうがないんだ」

 

でも。
「自分はこういう人」という認識のままでいることが
その状態を選ばざるを得なくしているのだとしたら?

 

何を選び、何を育んでいくのか。
それはすべて、自分の手に委ねられている。

 

自分のなかにある ”想い” という名の種があるなら、
どこに種を植え、どこに水を撒き、
どのように育てていくのか。

 

それは、もしかしたら
ものすごい美しい大輪の花を咲かせるかもしれないのに

 

種すら植えずにいるのは自分なんだと。

 

植えても水を注がないのは自分なんだと。

 

そういう環境を
好むと好まざるとにかかわらず
自分が無意識的に選び続けている
ということに気がついた時、

 

開き始めるってことを
自分自身を含め、
いくつも見てきました。

 

「何も変わらない」
「所詮こんなもんなんだ」

 

ということを証明し続けているとしたら、
そろそろそこから自らを解放してあげる。

 

すべて選びとって行けるのだということに
わたしたちはどれだけ気づいているでしょうね。

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